書簡@ 尾崎先生 直筆の手紙


    尾崎楠馬先生の直筆の手紙が発見されました。尾崎先生の手紙は
   「尾崎楠馬先生遺稿集」に多数収録されていますが、実物の保管場所
   はわかっていません。このたび発見されたのは、「遺稿集」に収録され
   ていない大津正一氏(中4回)に宛てた手紙です。大津氏の親族が保管
   していたものを寄贈して下さいました。また偶然ですが、母校「はぐま会
   館」で、大津氏が尾崎先生に宛てた手紙も見つかりました。併せて読む
   と、深い師弟関係がわかります。解読にあたっては高田岩男氏(高2回、
   第15代支部長)、近藤彰氏(高11回、第16代支部長)に全面的に御協
   力をいただきました。

    尾崎先生の手紙は、葉書が10通(うち2通は年賀状)、封書が1通あり
   ます。昭和25年に同窓会開催を依頼する手紙と出席後の礼状。大津氏
   の闘病生活を励ます手紙。大津氏の実兄の江塚幸夫氏(中2回)と乗鞍
   岳に登った時の絵葉書などです。余白までびっしり書かれている葉書も
   あります。大津氏の手紙(1通)は病状を報告する手紙です。
    尾崎先生の励ましもあって大津氏は病気から回復しましたが、今度は
   尾崎先生が病魔に襲われました。大津氏は東大医学部講師だった昭和
   28年に尾崎先生の自宅にお見舞いに行き、これが東大病院への入院に
   つながりました。入院中、大津氏は献身的に治療に当たりましたが、尾崎
   先生は昭和29年に死亡し、大津氏が病理解剖を担当しました。

    大津正一氏略歴。大正元年、元御厨村長・江塚勝馬の次男として生ま
   れる。兄は「尾崎楠馬先生遺稿集」の編集主任を務めた江塚幸夫(中2
   回)、弟は江塚正典(中7回)、江塚昭典(中20回)。見付中学在学中の昭
   和3年に大津家の養子に。成蹊高校、東京帝国大学医学部を卒業し、名
   古屋陸軍病院に軍医として入隊。東大医学部講師として尾崎先生を診察
   し、死亡後に病理解剖を担当。東大助教授、東大病院分院臨床検査部長、
   東京都老人総合研究所(現・東京都健康長寿医療センター)に勤務。昭和
   62年没。


    尾崎楠馬先生から大津正一氏あての手紙
   (原文は縦書き。年月日など一部推計。句読点は補足)

     その一(昭和22年8月28日、はがき)

     拝啓 残暑不相変酷烈、而も家庭を離れての不自由勝ちな生活。
    御苦労の程もいかばかりかと十二分に御同情申上げます。先達は
    態々御出を願ひ、用意周到御真情籠れる御診察、更に血沈検尿迄
    御手を尽した御取扱に預り、両人共即今の健康状態をはっきり知る
    事の出来ました事は誠に心強く安心至極に存じ衷心より厚く御禮申
    上げます
     尚なほ向後細心注意保健に努めますから御休神の程願上げます。
    偖年のせいか兎角記憶が不確で面目ない次第ですが、先般御話中
    「英語の教師をほしい学校はないでせう?」とお尋ねになったのは貴
    下ではなかったでせうか。若しさうだとすれば見付高女、森町の周智
    農林校、両校で口がありさうですから履歴書二通、小生手許迄、御回
    送(當人の人物、性格、長短等御存じの点を御手紙に書き添えて御
    報願ひます。

     その二(昭和25年1月9日、はがき)
    (注)盆栽の絵が描かれている。押印されている「桜汀」は尾崎先生
    の雅号

    謹賀新年

    併祷貴家隆昌
    昭和庚寅正月八日

    静岡県磐田市
    見付町北野
    尾崎楠馬 桜汀
 


大津正一氏(高校時代)

晩年の尾崎楠馬先生     右下にシイキの文字(写真館か?)

尾崎先生から大津正一氏への手紙

尾崎先生の手紙 その1

尾崎先生の手紙 その2
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