書簡C 尾崎先生 直筆の手紙


    尾崎楠馬先生が大津正一氏(中4回)に宛てた手紙の続きです。
   その9は、直筆の封書として、現時点で発見されている唯一のも
   のです。両面書くことができる便箋に5ページにわたって書かれ
   ています。病気療養中の大津氏を励ますとともに、ほかの教え子
   の近況を伝えています。
    文中の「令兄」は大津氏の実兄の江塚幸夫氏(中2回)。「お
   年忌」は両親の7回忌のことで前年9月23日の大津氏から尾崎先
   生への手紙に「来年は亡父母の七回忌に当たりますので、何とか
   帰郷して法要をいとなみたいと考えて居りますが、」とあります。
    「浅沼君」とは浅沼武氏(中3回)と見られます。浅沼氏も病
   気だったように読めますが、詳しくはわかりません。「自腹を切っ
   て狭斜の巷の情緒を味ふ」の「自腹」の横に○○と書いて強調し
   てあり、手術で腹部を切るのと、自分でお金を払うことを掛けた
   ダジャレのようです。「狭斜の巷」は「遊郭、花柳界」のことで
   す。大津氏を元気付けようと冗談を言っているようです。浅沼氏
   は裁判官で、のちに東京高等裁判所判事などを務めました。
    「松井」とは松井利一氏(中4回)と見られます。見付中学卒
   業後、尾崎先生の推薦で講談社に入りました。その後、独立しま
   したが、長く闘病生活を送りました。手紙にある朝日歌壇の入選
   日は昭和27年2月24日と見られます。尾崎先生は朝日新聞で発見し、
   その日にうちに御見舞の手紙を送っています。その手紙は「尾崎
   楠馬先生遺稿集」に収録されています。松井氏は体調を回復し、
   この手紙の10年後に発行された「遺稿集」の校正を担当しました。
    (原文は縦書き。一部推計。句読点は補足。短歌の読み仮名は
   手紙ではルビを振ってある)

    その9(昭和27年7月28日付)

    拝復 七月十八日付の詳しいお手紙を拝見した。今日は夕方、
   令兄が見えられるから詳しい御容體も承る事が出来ると思うが、
   何にせよ肋膜にしても糖尿病にしても、今慎重な備へ立てをせね
   ばならぬ大事な時期にあられる様子で、さなきだに炎暑酷烈の砌、
   心身共に労苦の多い事であらうと深く御同情申上げます。
    石川啄木の歌に「我が抱く思想はすべて金無きに因する如し秋
   の風吹く」といふのがある。経済苦に悩まされた彼には明暮考へ
   る事の大部分は、いかにして此の貧乏を切り抜けるかにあったら
   うと想像せられる。されば病気に悩まされて居る人々には「我が
   抱く思想はすべて病有るに因する如し秋の風吹く」と詠ぜられる
   でせう。
    先立つものは健康です。どうかせかずあせらず怒らず苦にせず
   専念に健康を回復せられて、すこやかな研究を續けられるやう衷
   心祈ってをります。
    お年忌の事も責任上、気にかかるでせうが既に死んだ人の事よ
   りも今生きている人の事を考へるのが大切でせう。父母は唯だ病
   をこれ憂ふと論語にも記されてあります。草場の陰からも、どふ
   か健康でゐて呉れるやうにと念願せられて居るに違ひありません。
   呉々も大事にして下さい。浅沼君から先達病気の由を伝へられて
   早速見舞状を出しました。病気が病気だけに、いち早く処理して
   速やかに全治されたから仕合です。病院の周囲が下町の柳暗花明
   の巷、窓を隔てて絃歌の音も夜更けて聞かされたといふから、自
   腹を切って狭斜の巷の情緒を味ふのも、たまにはよからうといっ
   てやりました(勿論厳正なる裁判官、平素役得で御馳走に預かっ
   ている事は断じてありませんが)。
    御手紙にもあった松井は本當に可哀相です。或る印刷屋さんで
   巨萬の富を成した方が社会奉仕的に綜合雑誌(世道人心に稗益あ
   らしめるため)を発行しようと念願し、其の編集主任に松井が嘗
   て講談社で机を並べた親友の加藤某から推薦を受け住宅迄も提供
   せられ全家挙って上京、然るに事、志と違ひ紙価は暴騰する、エ
   ロ本は氾濫するが、真面目な雑誌は顧みられない…で発行見合わ
   せとなった。
    そして加藤氏の経営している漫画雑誌(これも真面目なものゆ
   え読者が逓減する)を手伝って居るうちに夫妻共に肺を侵された
   といふ。弱り目に祟り目、其日其日の生活費、医療費は何所から
   出て居る事であらう。或いは其の親友加藤氏が全部負担して居ら
   れるか、考へると胸をしめつけられる様な気になる。
    松井は慰安のために和歌をはじめ、朝日新聞の斎藤茂吉が選者
   になって居る朝日歌壇に投稿して居るらしい。初めて入選したの
   が本年二月十五日であった。其の時の歌は、いつ癒えて何をせむ
   との目安さへ立ち難ければものを思はず、といふのである。早速
   手紙を出して慰め且つ励ましてやった。六月三十日に来た手紙に
   次の歌があった。
    散歩程の歩みに堪へず高熱の出づるこのざまと歯ぎしりをしぬ
    (口惜しい胸中察するに余りがある)
    恵まれて病む身いつまで続くとは思はぬながら術(すべ)もな
   く臥す
    (恵まれて病む…とあるから多分親友から仕送りを受けて居る
   らしく思はれる)
    静脈の透けたる腕をさすりつつ病知らざりし過去し恋ふるも
    ペニシリン射てど効無く病む耳は重々(おもおも)として二月
   (ふたつき)はれず
   (結核性の中耳炎では何とも処置はないでせう)
    咳出づと医者に行きたる吾妻(わがつま)は費(つひえ)を多
   み嘆きて帰る
   (涙なしでは讀まれぬ)
    世の中に不運な人、不幸な人は沢山あるが、松井の如きは稀で
   せう。何とかして平癒さしてやりたいと只管祈念するばかりです。
    牛に曳かれて善光寺詣りという諺があるが明日は早暁出発一泊
   の予定で、令兄を杖に乗鞍登山を果さうと老爺が張り切っている
   ところです。
   七月二十八日 尾崎生
   大津君
   御侍史


 


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尾崎先生の手紙 その9−4

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