資料集③ 関東支部発展史
「関東支部発展史」は関東支部の創立について詳述した
極めて重要な資料です。関東支部会報の第8号(昭和58年
8月21日発行)に掲載され、第22号(平成9年8月20日発
行)に再掲載されたものです。筆者は見付中学1回生の寺
田恒次氏(旧姓・原田)です。
見付中学創立から始まり、「昭和3年春、東京に在学中
の一、二回の有志十二名神田のカフェーに集まり、大いに
青春を謳歌、苦しかった作業の思い出に花を咲かせる。思
えばこの会合が見中卒業生最初の同窓会であり、関東支部
走りであると言っても過言ではなかろう」と書いています。
最初の見中生が卒業した昭和2年に早くも同期の集まりが
あったという別の資料もありますが、その翌年には年次を
越えて、同窓生が集まっていたようです。
戦争が始まると同窓会は中断します。発展史には「見中
卒業生の多くは召集兵として軍戦に、銃後にあっては国の
為に奉公、世は正に軍国時代の様相を呈するに至った。も
早この頃になると同窓会など語るべくもなかった」とあり
ます。ただ、戦中か戦後かはっきりしませんが、尾崎楠馬
先生が昭和17年に退職されたあと「在京生との交流も日増
に多くなって行った。一回の近藤、岡本、そして私とのミ
ニパーティーにも喜んで出席された」と書かれています。
「近藤」は関東支部の初代支部長の近藤富士雄氏、「岡本」
は第4代支部長の岡本三平氏と見られます。
戦後の同窓会については、日付を明示して詳しく書いて
います。
戦後最初の同窓会は昭和25年10月21日。場所は江知勝で、
中1~5回の有志33名が参加したとあります。このころ初
めて同窓会を開いたことは、尾崎先生の大津正一氏(中4
回)宛て書簡(関東支部ホームページで公開)からもうか
がえますが、日にちなどの詳しい記述は他の資料にはあり
ません。
2回目の同窓会は昭和26年10月20日で、「四谷の昌平館」
で中1~10回が参加したとあります。この同窓会について
は「尾崎楠馬先生遺稿集」にも書かれており、このたび写
真も発見されました(関東支部ホームページで公開)。た
だ10月まではわかるのですが、日にちは他の資料にありま
せん。場所は「祥平館」が正しいようです。
3回目の同窓会は昭和28年11月25日で、「専売公社葵会
館」で開いたとあります。「遺稿集」によれば、日にちは
11月28日で、場所は専売公社の美竹会館となっています。
この同窓会が関東支部の創立総会でした。尾崎先生が重要
な役割を果たされた経緯、祝辞草稿の抜粋も紹介されてい
ます。
さらに初代から、掲載時の第9代の支部長の名前が記さ
れています。会報が発行されるまでの第2~5代の支部長
の名前は、この発展史が唯一の資料です。支部長は一回生
が務めるかどうかという論争があったことも触れています。
「関東支部発展史」の誤植・記憶違いの一部は22号に再
掲載されたときに修正されています。
原文の誤りと見られる箇所は以下の通りです。
・高番一回男女二二〇名→高校一回男子
・東郷の「江知勝」→本郷
・昌平館→祥平館
・五沢君、王沢君→玉沢君
・昭和28年11月25日→28日
・葵会館→美竹会館
・人の情を→人の情と誠を
・席者→出席者
・近藤富士→近藤富士雄
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