書籍⑤ 校歌・応援歌ものがたり
平成7年に青島秀樹氏(高26回)が書いた小冊子です。
当番年次だった同窓会総会の記念として発行しました。
校歌・応援歌の制定の経緯、作詞者・作曲者について綿密
な取材をもとに調べ上げています。
昭和5年に制定された見付中学の校歌の作詞者は伊藤恕
(ひろし)氏です。大正13年から昭和24年まで国語漢文の
教員として在職しました。城山中学、竜洋中学、二俣小学校、
二俣中学校、光明中学校、森中学校の校歌も作詞した伊藤氏は
どのような人だったのか。著者の青島氏は伊藤氏の養子の方
にも取材して、クリスチャンで賛美歌の翻訳をするような人
だったと紹介しています。
作曲者の草川宣雄氏については、どんな人か知られていな
かったそうです。青島氏の丹念な取材の結果、草川氏は東京
音楽学校の講師だったことがわかりました。伊藤氏のオルガン
の師であった関係で作曲を依頼したと推測しています。
現在の磐田南高校の校歌は見付中学の校歌と歌詞が一部異
なるところがあります。この謎について、青島氏は応援歌の
作詞者である鮫島義隆氏(高8回)から真相を聞くことが
できました。
興味深いのは、見付中学から磐田南高校になって校歌が
引き継がれず、校歌不在の時期があったということです。
昭和30年になって生徒会で「校歌をつくろう」ということ
になり、在校生で文芸部長だった鮫島氏が指名されて「南高
校歌作成委員会」を結成しました。いろいろ検討した結果、
見付中学の校歌を探し出して復活させたというのです。
その際、時代に応じて鮫島氏と当時の木原美義校長が3カ所
手直しし、作詞者の伊藤氏の了解を得て、磐田南高校の校歌
として正式決定しました。現在の校歌に「詞補 木原美義/同
鮫島義隆」と書かれているのは、青島氏が忘れられた歴史を
発掘したためです。
青島氏は応援歌についても調べています。見付中学の応援歌
は制定年、作詞・作曲者も不明でした。青島氏の調査により、
制定年は校歌と同じ昭和5年ということがわかりました。
作詞者は依然不明ですが、校歌と同じ伊藤氏ではないかと推測
しています。見付中学の応援歌は磐田南高校になっても歌い
継がれていました。校歌と同じく昭和30年に応援歌もつくる
ことになり、鮫島氏が作詞し、音楽の教員だった川口尋之氏が
作曲したということです。
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